第1話畑の真ん中、ギターだけが鳴っていた
朝、看板のほこりをぬぐいながら、店長はひとつ大きくあくびをした。
夢はパイロット。でも現実は、ギター屋の店長。今朝のコーラは常温だった。
向かいの畑では、今日も濱和君がトラクターに乗っている。
「誰も来ない日でも、開けておかないといけないからね……」
ぽつんと建つこのギター屋には、毎日が静かすぎるほど静かだ。
話すのが苦手で、営業も得意じゃない。SNSもチラシも三日坊主。
それでも、この店を閉めるつもりはない。なぜなら、閉めても暇なのは変わらないから。
ドアベルが鳴らない日でも、ギターの弦をそっとチェックし、軽く磨く。
部屋の湿度もきちんと調整して、楽器にとって快適な環境を保っている。
湿気の影響で少し鳴りが鈍ったアコースティックギターのネックを、そっと調整する。
誰かが来たときに「ちゃんと鳴るように」。それだけが日々の支えだ。
昼前、隣の飲食店でランチの仕込みをしていた甥っ子が、タオルで手を拭きながら顔を出した。
忙しい時だけ店を手伝ってくれる、憎まれ口の多い頼れる存在だ。
「おじさん、今日も“ゼロ来客チャレンジ”継続中ですか?」
「……ほっといてくれよ。こういう静けさにも、もう慣れたから」
「でもさ、毎日磨いてるだけあって、ギターだけはピカピカですね」
「それはね、誰かが来たときに『音が出ないギター屋』なんて言われたら、さすがにちょっと落ち込むからさ」
そう答える店長の声は、どこか照れくさそうで、少しだけ誇らしげだった。
その日の夕方、店のドアが静かに開いた。
店長は「宅配かな?」と一瞬思ったが、なんとお客様だった。
入ってきたのは、50代くらいの男性。
作業着のまま、帽子を手に取りながら、ゆっくりとギターの並ぶ棚を見てまわる。
「……昔、バンドをやっていてね」
そう呟いたその声に、店長は静かにうなずいた。
男性は何も買わず、ただ一本のギターに手を添え、少しだけ笑って店を後にした。
それだけのやりとり。
でも、その背中はどこか軽やかだった。
夜。閉店後の店内。
麦焼酎を片手に、店長はギターの前に腰を下ろした。
常温コーラに続いて、今日は麦焼酎もぬるい。
昼間、誰にも聴かれなかった音が、静かに店内に響く。
「今日も……鳴ってくれたな」
そのつぶやきは、LEDの明かりとともに、店の奥へと溶けていった。
ギターは静かに壁に寄り添い、まるで店長の言葉に耳を澄ませているかのようだった。
誰にも届かなかった音が、そっと空気に染み込んでいく。
そして店長は、ひとりごとのようにもう一度つぶやいた。
「……鳴ってくれて、ありがとう」
その言葉は、誰かに届くように優しく、そして確かに響いていた。
作:店長 + ことのは工房
あとがき
読んでくださり、ありがとうございました。
たった一人の来客でも、その日一日が報われる気がします。
ギターと向き合う日々は、静かだけど贅沢な時間かもしれません。
また、気が向いたらふらっと覗いてみてください。
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